東日本大震災15年 福島 横山和佳奈さん 「多くの命救いたい」 語り部に信念(その2止)

「東日本大震災・原子力災害伝承館」に勤め、被災体験を語る横山和佳奈さん=福島県双葉町で、平川義之撮影

=その1からつづく

祖父母そふぼは犠牲ぎせいに

行方不明ゆくえふめいだった横山よこやま和佳奈わかなさんのおじいさん(祖父そふ)、おばあさん(祖母そぼ)がお骨こつになって帰かえってきたのは、2011年ねんの夏なつごろでした。福島県浪江町ふくしまけんなみえまちの請戸うけど地区ちくは15メートルを超こす津波つなみにおそわれ、154人にんの死者ししゃ・行方不明ゆくえふめい者しゃを出だしました。請戸うけど小しょうは2階かいの床ゆかまで津波つなみが来きました。再開さいかいしないまま閉校へいこうし、現在げんざいは震災遺構しんさいいこうとして保存ほぞんされています。

請戸うけど地区ちくは災害危険区域さいがいきけんくいきに指定していされ、人ひとが住すめなくなりました。町まちの2割わりにあたる地域ちいきの避難指示ひなんしじが解除かいじょされたのは震災しんさいの6年ねん後ご。「最初さいしょは2、3日にちで帰かえれると思おもった。避難ひなん生活せいかつが何なん年ねんも続つづくなんて、思おもいもしなかった」

 

現在は震災遺構となった浪江町立請戸小学校の校舎1階の職員室だった場所=福島県浪江町で、田倉直彦撮影

友人ゆうじんと離はなればなれになった横山よこやまさんは、避難ひなん先さきの福島県ふくしまけん郡山市こおりやましの中学ちゅうがくでさびしい気持きもちになりました。知しり合あいは一人ひとりもいませんでした。そんな時ときにスクールカウンセラーに思おもいを打うち明あけると、だんだん心こころが軽かるくなりました。「また災害さいがいが起おきたら、その時ときは自分じぶんが心こころを楽らくにする側がわに立たちたい」と思おもい、大学だいがくでは心理学しんりがくを専攻せんこうしました。

次第しだいに、自分じぶんの言葉ことばで被災ひさいの記憶きおくを伝つたえたいという気持きもちが芽生めばえました。そのころ、福島県双葉町ふくしまけんふたばまちに「東日本大震災ひがしにほんだいしんさい・原子力げんしりょく災害さいがい伝承でんしょう館かん」が建たてられることを知しりました。請戸うけど小学校しょうがっこうからわずか2キロメートル。「請戸うけどにいた私わたしだから、伝つたえられることがあるかも」と思おもいました。

現在げんざいは職員しょくいんになり、語かたり部べとしても活動かつどうしています。体験たいけんを語かたる時ときは、犠牲ぎせいになったおじいさん、おばあさんのことにふれます。請戸うけど小しょうでは全員ぜんいんが無事ぶじだった一方いっぽう、犠牲ぎせいになったおじいさん、おばあさんを紹介しょうかいするのは心こころが痛いたみます。それでも語かたるのは「一人ひとりでも多おおくの命いのちを救すくいたい」と思おもうからです。

同どう年ねん代だいの経験けいけんを

伝承でんしょう館かんには40人にん以上いじょうの語かたり部べがいますが、約やく8割わりが60~80代だいで、20代だいは6人にんだけ。でも若わかい語かたり部べだからこそ、果はたせる役割やくわりがあると横山よこやまさんは考かんがえています。

特とくに相手あいてが子こどもの場合ばあいです。「子こどもたちは、おじいちゃんやおばあちゃん世代せだいの方かたの話はなしだと、昔話むかしばなしのように思おもってしまう。若わかい私わたしなら、『あなたと同おなじぐらいの年齢ねんれいの時ときに地震じしんを経験けいけんしたんだよ』という伝つたえ方かたができる。そうすれば身近みぢかに感かんじ、共感きょうかんしてもらえるはず」

震災しんさいから15年ねんがたち、風化ふうかを感かんじる時ときがあります。「体験たいけんを伝つたえる人ひとがいなくなれば、事実じじつは消きえていく。震災しんさいのことに興味きょうみを持もつ人ひとも減へっていく。だから語かたることには大おおきな意味いみがある」。横山よこやまさんは信念しんねんを持もち、語かたり部べを続つづけています。【田倉たくら直彦なおひこ】

 

毎日小学生新聞より転載