広島の記憶に色づけ 20代記者が映画化

いまから81年ねん前まえの1945年ねん8月がつ6日むいか、アメリカ軍ぐんのB29爆撃機ばくげききが広島ひろしまに原子爆弾げんしばくだん(原爆げんばく)を落おとしました。「一瞬いっしゅんにして失うしなわれた日常にちじょうの『平和へいわな色いろ』を伝つたえたい」。広島出身ひろしましゅっしんで、広島ひろしまテレビ放送ほうそう記者きしゃの庭田にわた杏珠あんじゅさん(24)は、被爆ひばく前後ぜんごの日常にちじょうを写うつした白黒しろくろ写真しゃしんをカラー化かするプロジェクトに取とり組くんできました。庭田にわたさんが監督かんとく・脚本きゃくほん・撮影さつえいを手てがけた映画えいが「記憶きおくの解凍かいとう」(77分ふん)の全国公開ぜんこくこうかいが始はじまりました。【関東かんとう晋慈しんじ】

映画「記憶の解凍」を手がけた庭田杏珠さん=広島市中区で、佐藤賢二郎撮影

生いきているよう

カラー化かのきっかけは高校こうこう1年ねんの時とき、被爆者ひばくしゃの浜井はまい徳三とくぞうさん(2023年ねんに88歳さいで死去しきょ)と出会であったことでした。浜井はまいさんは、現在げんざいの平和記念公園へいわきねんこうえん(広島市中区ひろしましなかく)がある旧きゅう中島なかじま地区ちくの理髪店りはつてんで生うまれ育そだちました。

疎開そかい先さきにいて無事ぶじだった浜井はまいさんを除のぞき、家族かぞく全員ぜんいんが被爆ひばく死ししました。アルバムを見みせてもらうと、戦前せんぜんの家族かぞくの日常にちじょうを写うつした白黒しろくろ写真しゃしんが収おさめられていました。

このころ、庭田にわたさんは東京大学とうきょうだいがく大学院だいがくいんの渡邉英徳わたなべひでのり教授きょうじゅから人工知能じんこうちのう(AI)を使つかって色いろをつける技術ぎじゅつを学まなんでいました。浜井はまいさんと対話たいわを重かさねながら色いろづけ。カラー化かした写真しゃしんを見みせると浜井はまいさんは「家族かぞくが生いきているようだ」と喜よろこび、新あらたによみがえった思おもい出でも話はなしてくれました。

子こどもの目線めせんで

庭田にわたさんは、旧きゅう中島なかじま地区ちくの関係者かんけいしゃら30人にん以上いじょうに聞きき取とりをしました。写真しゃしんはAIでカラー化かしたうえで証言しょうげんや資料しりょうなどをふまえて手作業てさぎょうで補正ほせい。20年ねんには、戦前せんぜんから戦後せんごにかけての写真しゃしん約やく350枚まいを収録しゅうろくした渡邉わたなべ教授きょうじゅとの共著きょうちょを出版しゅっぱんしました。

小学しょうがく5年ねんの時とき、平和記念公園へいわきねんこうえんのある場所ばしょが、戦前せんぜんは広島ひろしま有数ゆうすうのにぎやかな街まちだったことを知しりました。「初はじめて自分じぶんごととして想像そうぞうすることができた」

 

映画えいがでは、これまで対話たいわした被爆者ひばくしゃや戦争せんそう体験たいけん者しゃの「記憶きおくの色いろ」を再現さいげんする様子ようすを描えがきます。同おなじく旧きゅう中島なかじま地区ちくで生うまれ育そだった高橋久たかはしひさしさん(20年ねんに91歳さいで死去しきょ)からは、戦前せんぜんに花畑はなばたけで写うつした家族かぞく写真しゃしんを提供ていきょうされました。高橋たかはしさんは認知症にんちしょうを患わずらっていましたが、「これはタンポポだった」と語かたり、黄色きいろに補正ほせいしました。

子こどもが分わかりやすいように、ドキュメンタリーとアニメーションからなります。主人公しゅじんこうがタイムマシンで旅たびをするアニメーションを庭田にわたさん自みずから作つくりました。アニメ映画えいが「この世界せかいの片隅かたすみに」の片渕須直かたぶちすなお監督かんとく(65)が監修かんしゅうしました。

庭田にわたさんは「多おおくの縁えんがつながって完成かんせいした作品さくひん。戦争せんそうは子こどもをふくむ一般市民いっぱんしみんを巻まき込こんでしまうと伝つたえたい」と話はなしています。

毎日小学生新聞より転載